カメラマン 宮本 正(ただし)氏

投稿日: カテゴリー: お知らせ, スタジオ訪問

 東温市西岡(にしのおか)、田園風景が広がる少し小高い場所にそのスタジオはある。
 1958年生まれ。22歳でフリーフォトカメラマンとして独立してから39年、現在は、映像9割、写真1割と、もっぱら映像の仕事を主体に、キー局から依頼を受けての取材、CM撮影、イベント撮影などを手掛けている。
そんな宮本 正(ただし)氏に、お話を伺った。
(文・写真 - 中対 明)


◇初期衝動

 写真への初期衝動を覚えたのは、中学1年生の時。当時近所の兄ちゃんがくれたおもちゃのフィルムカメラ。それまでこれといった趣味がなかった少年が、初めて夢中になれたものが「写真」だった。
 家の周りの様々なものや家族など、自分を取り巻く世界を撮影しては、その現像結果に一喜一憂する日々。中学2年生の時には既に、「自分には写真しかない。世界一のカメラマンになれる。」という強い信念が育っていたという。

 いつだったか正確には覚えていないが若いころ、愛媛県立美術館でW.ユージン・スミス「カントリー・ドクター」の写真展が開かれ、強烈な衝撃を受けた。写真から感じた“匂い”や雰囲気が、その後の自身の作品制作にも少なからず影響を及ぼした。
 「「カントリー・ドクター」や「水俣」といった作品は、現場に何カ月も張り付いて、被写体となる人々から、心からの信頼を得なければ撮ることができない写真ばかり。その強烈な情熱にも感銘を受けた。」

宮本氏の作品たち

◇「カメラマン」としての沿革と想い

 働きながら定時制高校を卒業した後、写真館に勤めながら松山商科大学短期大学に就学。その写真館を1年で退職して現像所に。現像所では、大学を1年間休学して宝塚への転勤も経験した。
 大学を卒業後もしばらく現像所に勤めた後、フォトグラファーとして市内のデザイン事務所に就職。写真を撮っては現像、撮っては現像、午前0時近くまで仕事をこなすのが当たり前の日々だったという。

 写真漬けの日々を送る中、一念発起し、22歳のとき(1980年)にMPS(Miyamoto Photo Studio)スタジオを設立。
 設立当初は全く仕事の機会に恵まれず、アセムスタジオ(赤松章代表)でのアシスタントや、他のバイトなどもしながら、少しずつMPSとしての仕事を受けていった。

 「広告業界で独立したら、もう「作家」ではない。求められた要望をしっかり捉えたうえで、世に出して恥ずかしくない写真を撮る。一現場一現場、そういう「カメラマン」としてのプライド・信念で仕事をこなしてきた。」

 独立スタジオとして、生活費も含めて収益が確立できてきたのは、20代後半になってから。代理店、印刷会社、企画会社等から広告・チラシ関連の撮影業務を中心に請け負う中、道後温泉の観光ポスターの写真で広告賞を受賞。それからさらに仕事が増えていった。

 独立後から写真とほぼ同時進行でチャレンジしていたのが映像の撮影だった。
 24歳のとき既に、「これからは映像」と、独学で修業を積み、こちらも20代後半から、少しずつ仕事になっていった。映像の仕事を主軸にしていこうと決めた26歳(1984年)からは、社名も「共同映像」に変更。映像機材は写真機材に比べて非常に高額である(ケタが違う)ため、稼いだ売上の多くが機材費で消えていったという。

愛着のある機材と共に。電動モーター式の天井レールディフューザーを自作したり、壊れた映像機器を分解して自分で修理したりと、機械にも強い。

 「写真も映像も、自分で営業をかけたことが一度もない。これまで関わってくれた人々との「縁」でやってきた仕事がほとんど。撮影料を明示せずに「お願いですから使ってください」というスタンスでは、金額を不当に低く叩かれてしまう。」
 広告業界、特に愛媛では過去より、フォトグラファーやデザイナー等も含めた“クリエイター”たちの“創造”の「価値」(対価)が、都市部に比べて低く評価されてきたことが否めない。
我慢して安くやろうと思えばやれないこともない、ただそれでは「創造」の“価値”の下限がどんどん下がってしまい、愛媛ではクリエイターが育たなくなってしまう…(生活の基盤としてその職に就くことがどんどん困難になってしまう…)。そうした、後に続く者達への思いやりにも似た想いを感じた。

◇これからのクリエイター達に思うこと

 「若い人たち同士、みんな、もっと直接会って話したほうがいい。」
 特に大事な用がなくても、当たり前のように喫茶店でお茶しながら話し合う、そんな日常の中から仕事につながっていった時代だった。
 「メールやSNSが登場して、“拡がるけど深く関わらない”という人間関係が多くなっているような気がする。直接会って、人対人のリアルなやり取りを重ねてほしい。それが自分のためにもなり、世のためにもなっていくと思う。」
 現在はMBC(松山ビジネスカレッジ)で写真・映像関係の講師として教壇にも立つ。生徒達がスマホゲームに夢中になっている様子を見るにつけ、「特に生徒達には、ゲームメーカーや大企業から与えられた“本物ではないもの”に夢中になるよりも、現実、リアルをもっと知って欲しい。」と感じるという。
 
「クリエイターが仕事の現場で、自分の考えを信念を持って相手に伝えられるかどうか。本当のライバルは自分の中にいる。」
 写真や映像表現・広告表現において、依頼主の示す方向性では効果が出ないと思ったとき、勇気をもって意見をしっかりと言えるかどうか。
「お金を出してくれる人ではなく、その先にいる「届けるべき人」が見たときにどう思うかが一番大事。企画の上流工程から、顧客目線で提案できる勇気が、クリエイターには必要だと思う。そして、そんなクリエイターの提案を受け入れる度量のある企業こそが、この厳しい時代の中でも、継続的発展をしていける企業だと思う。」

◇今後のプランや夢

「いっぱい旅行に行きたい。でも資金が足りない(笑)。昔はお金は稼げたが仕事が忙しすぎて時間がなかった。今はその逆。」と笑う。

 約40年間この業界に携わり、「カメラマン」として譲れないプライドを胸に真正面から勝負してきた経験の年輪が、その笑顔の目じりに出る皺(しわ)のように、部屋や機材の隅々まで滲み込んだような、独特のオーラを持つ渋いスタジオだった。

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